プラン・ジャパン

 ジョグジャカルタ地震があったというニュースで、私のフォスター・チャイルドだったパルディヨノ君のことが心配になりました。
 ユニセフの下部組織であるフォスタープラン協会(今年名称が変わりプラン・ジャパンになりました)が海外の子ども達の支援を呼びかけたのが1983年。 私は84年から93年まで三人の子ども達の足長おばさんをやってました。
http://www.plan-japan.org/home/index.html
 最初の子どもがジョグジャカルタのパルディヨノ君。
 当時の主人のお給料から毎月3,000円の出費はかなり大変でしたが、この活動を知った途端に申し込んでました。
 最初に送られてきた写真には映画で見たことがあるような土で作られた小さな小屋の前で赤ん坊を抱いて嬉しそうなお母さんときちんとしたシャツと半ズボン姿の小さなパルディヨノ君が写ってました。
 家の割にはきれいな服を着ていると思ったのですが、現地の方の説明文には「フォスターペアレント様に見せるお礼の写真だということで正装しています。足をご覧ください」とありました。注意してみると、パルディヨノ君だけが靴を履いており、お母さんは裸足でした。
 毎月の振込の他手紙と写真のやりとりをするのですが、パルディヨノ君一家が私からの援助で最初にしたことは鶏を買うことでした。鶏を増やし、卵を売って生活を支え、89年に支援対象からはずされる頃には自転車が買えるほどになっていました。
 私の3,000円は、パルディヨノ君一家の支援だけでなく、その一家の近所の井戸掘りにも使われたそうです。
 手紙は、私が日本語で書き、それをプラン・ジャパンのボランティアの人が英文に直し、それを更にインドネシアのボランティアの人がインドネシア語に翻訳しという経過を辿り、また逆の順番で翻訳されたパルディヨノ君の手紙が私の元に届けられましたが、ボランティアの不足などからあちらの手紙が私の元に届くのに三ヶ月くらいかかったりしていましたが、時々届けられる写真には生活向上の兆しが見え「卵からヒナが孵って鶏が増えて、もっとたくさんの卵を売ることが出来るようになった」など喜びの言葉が書いてあって私も嬉しかったです。
 パルディヨノ君の後はインドのタミルセルビちゃんになりましたが、1年ほどでタミルセルビちゃん一家は支援対象地域外に引っ越したのでそれっきりになり、次に紹介されたホンジュラスとクラウディアちゃんとは「政情不安につき支援が打ち切りになった」という連絡があって、その後は、私の方の生活も大変になったので足長おばさんをやめました。
 パルディヨノ君はうちの息子と同じ年だったはずです。
 地震・・・パルディヨノ君、無事かしら?

 検索してみるとAMDAという組織がいち早く支援を打ち出した模様です。
http://www.amda.or.jp/